「はじめから違和感はあったんだ。 お前の引越しを手伝った時お前の持ち物の中に時計など“音の鳴るもの”が一切なかった。 そういえば作業中何の音も聞こえなかったな」
「…」
「意識的に排除していた。 違うか?」





ひとかけらの空 8





しばし沈黙があったように思う。
微動だにせず幸村は手元を見つめていた。

対して三成は確信を持って聞いた。
自分の部屋と幸村の部屋の違い。
それは音だった。
時計の秒針、冷暖房や洗濯機加湿器、調理中の音など、生活する上で必ず何かしらの音を耳にする。
しかし幸村の部屋にはそれら一切の生活音が存在していなかった。
普段は気にならないが、一度気づくとその違和感は拭えない。
日常的に“音”に接する機会が多い三成だからこそ気付いたとも言えよう。

そのとき幸村が静かに口を開いた。


「…兼続さんの家に行ったとき」


何かを嫌がるように両手をぐっと握り締める。


「部屋の暖房の風の音と加湿器の水を出す音が全く調和が取れていない、と感じました。 違うHz(ヘルツ)の、しかも不協和音。 耐えられなかった」


ヘルツ。
音楽、特にオーケストラや吹奏楽等皆で音程を合わせる必要に迫られたときによく聞かれるもの。
チューニングではこのヘルツを合わせておかないと音程が壊れてしまうものだ。


「Hzまで気になるのか…お前は随分強い絶対音感を持っているようだな」
「そうおっしゃる三成さんは絶対音感に対する知識が深いですね」
「俺自身も多少持ってはいるからな。 だが正直それほど考えたことはない」


三成も音感は持っているが、幸村のように意識した事がない。
幸村はそんな三成にそうですね…と少し考えて話し始めた。


「音感には二つあって、絶対音感と相対音感がありますよね。 相対音感は2つの音を比較して高いか低いかがわかる能力。 例えば先にドが鳴って次にレが鳴った時、2個目の音の方が高いとわかる能力です。 後は和音が鳴った時に2つの音の間隔がどれくらいあるかがわかるとか、そんな感じです」


意外に手際の良い説明に三成は素直に納得した。
幸村の話からまとめると相対音感は“別の音と比較して音がわかる能力”と言える。


「それで、絶対音感のほうはその名のとおり絶対的に音がわかる能力です。 突然何かの楽器とかで1つだけ音を出されてもわかるし、別に楽器の音じゃなくても生活している中で出た音もドレミで言えてしまいます」


対して絶対音感は“出た音が瞬時に何の音か分かる”能力と言うことだ。
幸村は話を続けた。


「具体的に言うと例えば救急車のサイレンの音ですね。 世の中ではピーポーピーポー鳴ると言われていますが、私にはシソシソとしか聞こえない。 離れていくとき音程が下がってくな、とかわかります」


三成は肩に掛けていた楽器ケースを下ろして、腕組みをしながら説明に耳を傾けた。


「このあたりに程度の差はあります。 救急車の音はかなり音程がある方なのでわかりやすいんですが、生活音なんかは瞬時に判断出来ない人もいますし。 ラの音はわかるけど他の音はわからないとか、自分の演奏する楽器ならわかるけど他はわからないとか、絶対音感にもいろいろあるんです。 だから少し絶対音感がある人とかも普通にいます」


多分三成自身は自分の楽器ならわかるが、という部類に入るのだろう。
絶対音感という定義が曖昧な以上、強い弱いの区別が絶対音感には存在するのだ。

その中で、幸村は。


「私は、かなり音に敏感みたいです」


幸村は困ったように笑った。


「耳が生活音も含めてどんな音も捉えてしまうのです。 そして完璧な音程を求めてしまう」


そしてもう一度視線を手元に戻し呟く。
それは三成に話すというよりは自分自身に言い聞かせているようにも見えた。


「一度は昔から好きだったピアノの専攻を目指しました。 でも、この耳がそれを邪魔した。 誰とセッションしても気分が悪くなる。 どうしても他人と合わせられない。 人の感じ取った“音楽”ではなく“音程”に気が行ってしまうから」


三成たち演奏家は作曲者の描いた曲から知識と感性を用いて“音楽”をする。
もちろんその中に音程は必要だが、曲の中で明るい音暗い音、輝くような音や深い音など、様々な種類を使い分けて自分の世界を表現しようとする。
そんな世界で音程だけに注意がいってしまうようなら、確かにプロとして進んでいくのは難しいだろう。

…だが、三成は幸村の言葉に何となくしっくりこないものがあるように感じ始めてきた。


「一生ソロだけでプロはやっていけるはずがない」


幸村の表情も言葉も。
全てを諦めているように見えるのだ。


「今もそうです。 引っ越してきて全然集中できない。 雑音が耳から離れないのです」


もう一度どことなく弱々しく幸村が笑う。
そのとき三成は冷たく言い放った。


「この町は、音が多すぎる…」
「だからどうした」


いらいらしたように、突き放すように三成は言う。
幸村は驚いたように三成を振り返った。


「それではどうするというんだ、山にでも篭って僧にでもなるか? 音のない静かな世界に住むか? 無理だな、お前は音楽に捕われている! 絶対に離れて過ごすことはできない!!」


突然の三成の激昂に幸村は目を瞠る。

しかし三成自身も自分がここまで感情を動かされたことに驚いていた。
そしてその理由もわからないまま、感情のままに言葉を並べる。


「お前はそんな消極的な理由で作曲専攻に来たのか。 だとしたらお前の代わりに落とされた受験生も哀れなものだ」


何故こんなにも腹が立つのだろう。
何故こんなにもこいつを構ってしまうのだろう。

そして、静かに幸村に問うた。


「もう一度考えろ。 お前は何を思ってこの世界に来た」
「…私、は」


それだけ言うと三成は幸村から視線を外し、静かに楽ケースから自分の楽器を取り出した。
幸村はぼんやりとしながら机に散らばっていた五線譜を手に練習部屋を出て行こうとする。

そこでもう一度三成が口を開いた。


「ピアノに何か感じるものがあるというのなら、一人紹介してやる。 俺の尊敬する人の知人にピアノ専攻の雑賀孫市という男がいる。 そいつを訪ねてみろ」


幸村は静かにその言葉を受け止め、声もなく会釈だけして部屋を後にした。


三成はその様子を見届けると、俯きがちに一度くしゃりと自分の髪を掴み、一つ舌打ちをすると調弦を始めた。
廊下にはその微かな音が響いた。














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みつゆきにすれちがいはつきものです。









2008.04.02up