左目の奥にかすかな痛みを感じ、政宗は静かに筆を置いた。 誰の目もないのをいいことに、右目を覆う邪魔な眼帯を解く。墨のついた指先をぬぐいもせず、目頭をぐいと乱暴におさえると、ねぎらわれた眼窩に血がめぐり、白く目眩がした。そのまま仰向けに倒れこみ、ゆっくりと瞬きを繰り返す。感じていなかった喉の渇きを次第に思いだして、誰ぞ呼ぶかと口を開いたところで、傍らに白湯が用意してあるのを見た。そう言えば小十郎が持ってきていたな、と湯呑みに手をのばせば、すでに温かさの名残もなく、やはり人を呼ぶかと眉間にしわを寄せて、しかし口をつぐんだ。 片肘に体重をかけ、身体を少し起こし、ぬるいと言うのもおこがましい白湯を口に含む。もはや水に戻ったそれが喉を潤すのを感じながら、政宗はぼう、と天井を眺めた。 働かぬ頭で書簡と見詰め合っても、いたずらに時を浪費するだけで詮方ない。城下の発展も治水の改善も、ましてや神算鬼謀など降ってはこぬ。 こんな時。こんな時は今までどうしていたのだったか。成すべきことも気がそぞろ、まるで手につかないこんな時は。 湯呑みの残りを一気に飲み干して、政宗はすくと立ち上がった。らちがあかぬ。 図らずとも閉めきっていた室の障子を勢いよく開き、縁側に出た。秋に別れを告げようとする風が我先にと頬をなぜて、政宗の伸びた前髪をさらう。そろそろ寒さが厳しくなるな、と吐く息もほのかに白い。どかり、と音を立てて縁側に腰を下ろす。尻にした板がひんやりと冷たい。 そうしてめっきり薄くなった空の青をにらみながら、 「そうじゃ、冬じゃ、冬がきてしまう」 政宗は呟いた。 視界の隅を、枯れ葉がひらりと落ちていった。 夏に茂り、秋の実りを迎えて賑やかだった庭の木々も花も、すっかり鳴りをひそめて、次の季節を思い眠りにつこうとしている。今の政宗にはそれすらも忌々しく思えて仕方がなかった。 政宗自身、雪は嫌いではない。 雪に埋め尽くされる極寒の季節は、戦場を駆ける身からすれば、攻めに転ずるには都合が悪いが、逆を言えば攻める隙を与えぬ、国を守る堅牢な砦ともなりうる。厳しい自然は兵に束の間の団らんを与える。悪くはない。 何より、政宗には、この白銀の大地で生まれ、育まれてきたという自負があった。ぬくぬくと暮してきた者には、負けぬ。薄暗い空の下で耐え忍んできた者しか知らぬ景色があることを、政宗はよく知っていた。 それに、冬の朝の凛とした空気も、身が引き締まるようで心地の良いものだし、埋もれるほどの雪の冷たさも政宗にとっては当たり前すぎて、なければないで落ち着かぬ。 ――それに。そう、それに、雪のあまり降らぬ生まれの情人が、寒い寒いと大きな身体を丸める恨めしげな横顔も、冷えた身体に熱を分け与えることも、悪くはなかった。 浮かんだ顔に舌打ちし、しばし物思いにふけていると、落ち葉を踏みしめる軽い足音が聞こえて、政宗ははっと右目を抑えた。眼帯は、と腰を上げかけて、やめた。必要がなかった。 「貴様か。見廻りご苦労」 ご自慢の尻尾を忙しく振り立てながら、犬が一匹かけよって来る。なでてくれと言わんばかりに鼻をすりよせるので、政宗はわざと乱雑に頭をなで回してやった。 いつぞやの梅の季節に、伊達に居着いた犬である。 あまりに自然に生活に馴染んだものだから、一体誰が餌付けをしたのだと見渡せば、なんてことはない、家臣のほとんどが共犯者であった。 首謀者が戯れに拾ってきたのを、小十郎が抜け目なく手を回し、侍女がぬかりなく世話をし、家臣共がさりげなく構い倒した結果、すくすくと成長し才を認められ、晴れて門番預かりとなった。名実ともに伊達家の番犬である。 ひとしきり撫でられると満足したのか、政宗の足元に姿勢良く座った。日課となった庭の見廻りは一時休憩のようだ。政宗の傍らに寄り添いながら、何かを待つように、視線は庭の先を向いている。時折幼いころのように鼻を鳴らしては、政宗を見上げた。ひゅるり、秋風が吹く。一人と一匹はぶるりと身震いをした。 「…帰ってこぬな、貴様の拾い主は」 飼い主ではない。拾い主である。 消えそうな命に自然と手を伸ばすくせ、他の手が現れるといつの間にか己は引いている、そんな無責任極まりない手の主だ。 ただあれがしたことと言えば、雪に震える子犬を伊達という家に連れ帰り、かわいい盛りを気まぐれに、しかし大切に愛でていっただけである。 その男は己が拾った犬に、名前すら付けなかった。 なぜ付けぬのかと一言問えば、もう誰ぞが付けただろう、ああ、片倉殿は梵天様だなんて陰で呼んでいたな、他の奴らもクロだの何だの、皆好きに呼んでいる、こいつも気に入っている、それでいいじゃないか、そう言って、子犬を抱きあげて薄く笑っていたのを覚えている。気に食わない笑みだった。まるで愛することを恐れるような。 のう、孫市。お前が名前を付けなかったのは。いとおしい存在が。 「怖かったのか」 名を付けなければ、拾ったただの一人の男であれると思ったか。 他に大切に育ててくれる者がおれば、己は特別にならずに済むと思ったか。 ならばもう手遅れだ。名前なぞ付けずともこの立派な忠犬は、己を救い上げた唯一の手を忘れはせぬ。証拠に、季節が一巡りしようとしても戻らぬ薄情者をこうして待ち続けている。健気なものぞ。お前が一番恐れていたことだろう。大切なものに置いていかれる、その虚ろを、お前が愛おしんでいる者に味あわせるのは。 「――はよう、帰ってこい」 ぽつり口にして、政宗はかかと笑った。終わる秋の切なさに負けたか、情けないことよ。 突然の笑い声に、傍らの忠犬殿が不思議そうに政宗を見上げる。その頭を今度は優しく撫でてやった。 ある春の初め、一枝の梅花とともに、孫市は政宗の情念を受け入れた。少なくとも政宗はそう思っていたし、どうにも逃亡癖のある孫市の手を、掴んだからには離さない覚悟を決めていた。決めていた、が、相手は一枚上手だった。 普段通りに屋敷に顔を出し、鉄砲隊の指南を無難にこなし、さりげなく隊の副長に次の仕事を押し付け、夜は政宗と酒を酌み交わし心地よく眠りについたと思ったら、翌朝には忽然と姿を消していた。 冬は寒いから西に行く。男の手にしては可愛らしい仮名だけの走り書きを、政宗は無言で握りつぶした。 その日から厳冬を越え、春を迎え、夏を過ごし、秋が去ろうとしても、孫市は奥州の地を踏みはしなかった。居場所を掴もうにも、文の一つも寄こさぬ徹底ぶりで、日の本の何処かで雑賀の名が聞こえても西へ東へ脈絡もなく各地を転々としていて、尻尾を掴める気配もない。 初めは憤りもしたが、あの男はそういう生き物なのだと思うようにした。 雇い主と傭兵、主従を越えた関係に、名前を付けたのが恐ろしくなったのだろう。抱える執着と向けられる愛着に、何よりも自由を求める男が辛抱できるはずもない。その心は限りなく不自由だ。 雪が降ったら今年はもう戻っては来ないだろう。あれは寒さにめっぽう弱いし、何より悪路に無理はすまい。そうなればまた、春になるまで待たねばならない。 待つ。政宗はそう決めたのだ。 腕からするりと抜け出されたあの朝に。広げた腕はそのままに、待つと。 「孫市」 待ち人の名が、口からこぼれる。音の響きすら渇望している己が、おかしくてたまらなかった。 「孫市、そうだな。わしは貴様を孫市と呼ぼうか」 伊達の番犬に語りかける。政宗自身、この犬に名を付ける気はさらさらなかった。名などなくともそこにいる。それで十分だと考えていたし、事実そうであった。 「孫市。まごいち」 口にしてみると、西へ消えた男への意趣返しとしてはうってつけな気すらしてきて、政宗は繰り返した。艶やかな毛並みをゆるりと撫でつけながら、政宗は目を閉じた。目蓋の裏に、かつて焼き付けた顔が浮かぶ。 まごいち。まごいち。 かさり、と落ち葉を踏みしめる音に、いち早く反応したのは「まごいち」だった。ぴんと耳を立て、目標を発見したと思ったら、跳ねるように飛び出した。常には聞かぬような楽しそうな声をあげ、足取り軽く駆けていく。 政宗は緩々と目線をあげた。 記憶よりもなお情けない顔をした男が、そこには、いた。くたびれた羽織に、存在感のある銃剣が、どうにもうまく馴染んでいる。足元には、相好を崩した犬が飛びかからんほどにまとわりついて離れない。 立ち上がり駆けよりたい己をぐっと押しとどめて、背筋を伸ばし、腹に力を込めて、どっしりとその場に座る。内心の動揺はどこ吹く風で、できる限りまっすぐに孫市を見据えた。 お前が、来い、孫市。わしは逃げも隠れも、ましてや置いて逝きもせん。 風が吹き、互いの髪がそよいだ。枯れ葉がからからとざわめく。 見えぬ右目を秘すことなくさらし、何も言わぬ政宗に孫市はわずかにひるんだが、元からたれている眉を更に下げて、困ったような顔で言った。 「なに、やってるんだよ」 「なに、とは」 「人の名前、連呼してたじゃねえか」 「お前の名前ではない、そやつの名前だ」 はしゃぎまわる犬を目で示すと、孫市は、なんでよりによってその名前にするかね、とぼそり声を落とした。目元がわずかに赤いのを、政宗は見ないふりをしてやった。 「して、孫市」 いまだ縮まらぬ距離でも届くように、政宗ははっきりと声を飛ばす。 「奥州の冬はお前には寒すぎるのではなかったか」 面を食らったように瞬いて、ぐっと詰まった息を、孫市はそのまま吐き出した。作り慣れた笑みを浮かべ、孫市がかがむと、忠犬が待ってましたとすり寄る。わしゃわしゃと毛を逆立てるようにかき回して、政宗の方は見向きもせず、孫市は言った。 「その寒さが、懐かしくなってね」 「そうか」 「こいつ、でかくなったなあ」 「そうだな」 「相変わらず片倉殿には梵天様だとか呼ばれてんのか」 「そのようじゃ」 「この図体じゃもう幼名は似合わねえな」 「ならばお前が名付けてみるか」 ぴたり、孫市の手が止まった。おや、と政宗はわずか目を見開いたが、静かに次の言葉を待つ。突如止まった手に不満そうな忠犬が、まだ足りぬと鼻を寄せて、孫市の顔を舌で撫でた。うわ、と尻もちをついた孫市は、なされるがままにされながら、犬の身体を抱き込んで小さく笑むと、ひとり言のように言った。 「……名前なら、とっくの昔に付けてたさ」 予想だにしなかった応えに、政宗は顔がほころぶのを止められなかった。そうか。付けていたのか。そうか。 「さようならば、よい」 政宗は大変に満足をして、左腕をすっと伸ばした。羽織の袖がふわりと揺れた。 「孫市。おいで」 一人と一匹が、そろって顔をあげる。政宗が意地の悪そうに微笑むと、一人が罰の悪そうに口元をゆがめた。一匹の方はと言えば、呼ばれたけれど、行っていい?と一人の顔を覗き込んでいる。 「お前ではない。犬の方だ」 「紛らわしくて仕方ねえな」 「そうだな。孫市」 おいで。 政宗がもう一度そう言うと、孫市は立ち上がって、ゆっくりと歩みだした。 名前を付けて、君の好きなように end. ただの雇い主と傭兵から関係が変わっちゃって、なんだか怖くなって逃げ出した孫市をじっと待ってる政宗。逃亡癖があるだめな大人が帰ってくる話。 孫市が犬になんて名前を付けていたかはご想像にお任せします。 2013.02.01up |