本気にしちゃあいけないよ。雑賀の旦那の甘ぁい言葉。 なぜってそりゃあ、あのお方。 なぜってそりゃあ、あのお方。 お待ちどうさまの軽やかな声とともに、置かれた菓子と茶が二つずつ。ひらりひらりと華やかに、客へと盆を運ぶ看板娘の後ろ姿を見送りながら、質素だが上等な着物に袖を通した隻眼の青年は、意地悪く片眉を上げた。 「ほう、あれが近頃のお前の気に入りか。美人だな」 「だろう? その上気立ても良いとくりゃ、男は放っておかないね」 「尻もでかい。子も産みやすかろう」 「そうそ……って目の付け所がただのおっさんになってんぞ。まぁ確かに良い尻してるが」 雑多な人の行き交う峠の茶屋で、やたらに目立つ男が二人、口元を緩めて茶をすすっている。あの腰から尻にかけての丸みがいいだの、いやいや、健康的な二の腕もたまらんだの好き勝手に評していれば、視線に目ざとい娘がくるりと振り返って、強い眼で跳ねのけた。 「睨まれたな」 「お前のせいだろ、くそ」 「何を言う。お前が下心丸出しのにやけた面をしとるからじゃろう」 ああでも、あの気の強さに客が付くんだよな、まだ口説いていないのに惜しいことをした。 団子を串から外し、ぽいと口に入れながら、ひげ面の、くたびれた羽織をまとった男が嘯く隣で、右目を布で覆った若者はかかと笑った。快活な笑い声に周囲の客がちらと目を送って、ふいと逸らした。おい、あの若旦那、もしかして、そこかしこからひそひそ声が聞こえてきたが、青年は気にも留めず、傍らの男を茶化し続ける。 「残念じゃったな。口説いた所で相手にされまいが」 「やってみないと分かんねえだろうが」 「どうだか」 そう言って、青年も一つ草餅を頬張った。ゆっくりと咀嚼しながら、もう一人の男をいたずらな目で見やっている。すっと二人の目が交わって、だが物言わぬまま離れて行った。男二人、峠の茶屋で、また行き交う人々をぼんやりと眺めている。 五月晴れの新緑に人の心も弾むのだろう、昼時の街道は人で賑わっていた。人目を引く二人組がのそのそと茶をすする間にも、一時の休息を求め茶屋にはひっきりなしに客が訪れる。麦飯を掻き込んで次の仕事に走る者も、看板娘との世間話に華を咲かせる者も、目深に笠をかぶった見るからに事情のありそうな者も、皆一様に集っては消えていった。 消えていく者の中には、眼帯の青年とひっそりと会話していく者もいた。やれ、西の方でも天気に陰りが見える、山間の村で犬がどうした、取り留めのない話をして、そうしてまた去っていく。 傍らの、垂れた眉が特徴的な男の方はそれを興味なさ気に見送って、大きなあくびをした。目じりに浮かんだ涙を、おざなりに指で拭っている。それでも眼帯の青年の目配せに応えて、時折小さく頷いたり首を振ったりしているようだった。 先ほどから遠巻きにしている野次馬が、好奇の目を遠慮がちに送っては、同席者とあれやこれや浮ついた話を始めていた。 ありゃあ伊達の殿様じゃねえか、あの眼帯、あの眼光、間違いねえ。こんなところで何をなさってるんだ。男前だねぇ。もう一人のにやついた旦那はあれだろう、伊達家に是非にと請われたお方だろう。確かえらく鉄砲がうまいとか。おお、あれが雑賀の旦那か。女好きの。そうだそうだ、女好きの。この間、頬に紅葉でこっぴどく振られとった雑賀の旦那か。そりゃあ、おなごも手厳しいなぁ。色男じゃあないか。いやいや、あれだけ噂が流れていたらおなごも本気にするまいて。それにしてもあの二人、なんであんなに見つめあったりしとるんだ。男二人で。 隠すつもりで隠れていない野次馬の噂話には興味がないのか、眼帯の青年はゆったりと席に座っている。片や、女好きと散々に言われた、雑賀衆の頭領らしき男は複雑な笑みを浮かべて、ごまかすように一口茶をすすった。 「で?」 「なんじゃ」 「これからどうするんだよ。もう用は済んだんだろ。ついでにどっか行きたかったんじゃないのか」 食べかけの団子を盆に戻して、男は長い脚を組む。膝の上に肘を立て、体格の良い身体を丸めて頬杖をついた。そのまま見上げるように青年の顔を覗き込む。隻眼の青年が背筋を伸ばしたまま腕組みをして、 「ふむ。そうじゃな、考えていなかった」 と言えば、 「あのなあ、俺も暇じゃねえんだ」 呆れたような調子で男が口をとがらせた。大の男がするには幼い仕草が興に入ったのか、青年は柔らかく目を細める。 しかし、形の良い口元からは皮肉ともとれる科白が飛び出した。 「女を口説くのにさぞ忙しかろうな」 「人聞きが悪ぃな。美しい女性に声をかけるのは男の義務だろ」 「そんな暇があるならわしに付き合え」 青年が高慢に言い放つと、男は困ったように眉を寄せて微笑んだ。心置きない仲を感じさせるような、どこか余裕のある笑みだった。 「へいへい、今日は心行くまでお守役になってやるよ」 「子ども扱いするな、馬鹿め」 青年がすねた色を顔をにじませるので、男はますます笑みを深くした。青年の幼い顔を愛でているような風でもあった。が、頬杖をついていた手をなだらかに口元に回して、何やら小さな声でつぶやいた。あまりに密やかで、彼自身以外の他の誰にも聞こえないような、小さな声だった。 「……普段付き合いが悪いのはどっちだか」 男は長い瞬きをした。思いのほか長いまつげが、彫りの深い目元に影を落とす。傍らの隻眼の青年が、その横顔をじっと見つめていた。明け透けに向けられる視線に耐えきれなくなったのか、男が音をあげ顔をあげる。居心地が悪いのか、しなやかな足を大きく組み替えた。 「……なんだよ」 「ついている」 「はあ?」 青年が、組んでいた腕をやおら伸ばして、男の頬に手を添えた。添えられた男も、突然のことに驚いているのか、目を丸くして瞬間固まったようだった。いつからか軽い口を閉じて二人を見守っていた野次馬が、ごくりと唾を飲んだ。なんだか見てはいけないものを見ている気がする。でも見たい。己の顔を手で覆って、それでも指の隙間から覗いているような心持で、野次馬は耳を澄まして次の台詞を心待ちにした。 「ひげが」 「……お前な」 男は、はあ、と大きく息を吐いて、伸ばされた手を引き剥がした。野次馬の何人かは茶をこぼしたようで、看板娘がてきぱきと後片づけをしている。そんな周囲の狼狽もどこ吹く風で、 「剃らぬのか?」 と青年はなおも男のひげの有無に執心である。男の方も話題を受け流すことに決めたようで、 「ないと落ち着かねえからなあ」 なおざりに応えて、短く生えたあごひげを指でさすっては苦笑した。 それでも己のひげに注がれ続ける視線に、何か文句でもあるのか、そんな不満をこめて顔を向ければ、青年がさらりと告げた。 「ひげが当たると痛い」 ひげが当たるほど顔を近づけることが男同士で果たしてあろうか、と野次馬の頭に疑問が浮かぶその前に、 「特に朝はな」 と駄目押しの一言を落として、青年は悠々と茶をすすった。にやりと上がった口角が不敵極まりない。当のひげ面の男の方は、信じられないものを見るような目をして、口をぽかんと開けている。目元がほのかに赤くなっていたが、賢明な野次馬は皆、見て見ぬふりを貫いた。ひげ面の良い歳をした男の赤面だなんて、見ていて楽しいものではない。 こいつはなんということじゃ。伊達の殿様は雑賀の頭領にご執心じゃ。共寝をするような仲じゃ。噂にはあったが本当だった。叫び出したい唇をどうにかかみしめて、場所柄ちょっとやそっとではうろたえることのない、腹の据わった茶屋の店主は団子を一つ、串に刺した。力を込めすぎて指を刺した。聡明な看板娘は、それも見て見ぬふりをした。 「お、お前な、そういう誤解を招くようなこと言うなよ。世の中の女性が動揺しちまうじゃねえか。冗談がすぎるぜ」 長らく思考が停止していた雑賀の頭領が、情けなくどもりながら場の軌道修正を図る。ちらちらと周囲の顔を窺う様子が哀れで、さらにこんな時でも女好きを主張するようなその物言いに、指を痛めた店主は心の中でほろりと涙した。が、頭領の努力は一瞬にしてもろくも崩れ去った。 「事実じゃろう」 事実なのか。それは一大事だ。野次馬の顔が一斉に渦中の二人に集まったかと思うと、示し合わせたかのようにざっとそむけられた。注目を一身に集める伊達家の殿様の勝ち誇ったひと睨みには、その場の誰も勝つことなどできなかった。何も知らず茶屋の前を通りかかった旅人が、何事でもあっただろうかと首を傾げながら峠を越して行った。 雑賀の頭領はと言えば、諦めたようだった。先ほどまでまごついていたのが嘘のように、いっそ穏やかに茶をすすり、団子を優雅に口に運んでいる。ただ、目に覇気はなかった。あれが無我というものか、見当違いな旅の仏僧がぼそりと呟いた。 それを眺めていた伊達の殿様が、目をきらりと光らせる。あれは獲物に止めをさす鷹の目だった――と後に野次馬の一人、猟師の老人はそう語った。 「一口寄越せ」 そう言ったかと思うと、串を持った頭領の手を力強く取り、そのまま己の口元に団子を引き寄せた。それはさながら、頭領が手ずから殿様に団子を食べさせているような、成る程不思議な光景で、本日最大の二人の顔の近さに、何人か集まってきていた年頃の娘たちは、小さくきゃあ、と声を弾ませた。 快活な看板娘も、ひそかに黄色い悲鳴を上げた一人だった。不躾に見つめてくる男は嫌いだけれど、男の色がいる男は嫌いではないわ。己の尻をにやけた面でじろじろ見ていた男たちを、今度は彼女が無遠慮に目で舐めまわす番だった。 「団子もなかなかいけるな。わしは草餅の方が良いが」 のんきに感想を述べる伊達の若旦那とは裏腹に、 「だったら大人しく草餅くっとけ!」 これ以上は耐えきれなくなったのか、雑賀の頭領が勢いよく手を振り払い、声を張り上げた。 あの女好きの雑賀の旦那がねえ。いや、俺は端から怪しいと思っていた。好き勝手な野次馬の掛け合いに、かっと顔に血が昇った頭領は、ぐっと息を詰めて、余裕綽々な隻眼の青年に詰め寄った。 「大体なあ! 今日は一体どうしたって言うんだ! 朝っぱらから引きずりまわしやがって!!」 「近頃あまり構ってやれぬのがご不満なようじゃからな。罪滅ぼしのつもりじゃが」 「なっ……!? そういう事は二人の時にし……」 あら痴話喧嘩よ。痴話喧嘩だわ。 「ろよ………な……」 こりゃあ見事な墓穴じゃなあ。わしらで埋めてやらんとなあ。 まことしやかに女たちは妄想を広げ、男たちは講談の段取りを始める。どこまでもこの滑稽な艶話を広めてやろうという算段である。 孤立無援の群衆の中、雑賀の頭領は良く似た過去を思い出していた。 確か京の町でもこんな騒ぎになったんじゃなかったか。記憶の海を金色がなびいた。馴れ馴れしく付きまとっては、ふらり気ままに消えていった薄情な大男。 「もう勘弁してくれ……面倒は慶次だけで十分だ」 飄々とした傾き者のおかげで、京では全く女が引っかからなくなった苦々しい思いがよみがえって、思わず口に出すと、 「ほう? わしの前で別の男の名を出すとは良い度胸だな」 若々しい悋気に火がついた伊達の殿様が、もっと派手に見せつけてやろうか、口元を歪めながら顔を近づけるけれども、 「遠慮しとくぜ」 年の功か経験のなせる技か、雑賀の頭領は間髪入れずに遮って、すくと立ち上がり逃げ出した。 その後ろ姿を満足げに見つめて、伊達の殿様もゆるり立ち上がった。馳走になった、と二人分には多すぎる銭を置き土産にして、のんびりと後を追う。 情人の行く先などお見通しだと物語るかのような足取りに、残された野次馬達が沸き立つその影で、あのお二人は二度と来るまいな、と上客を逃した店主がひっそり肩を落とした。 本気にしちゃあいけないよ。雑賀の旦那の甘ぁい言葉。 なぜってそりゃあ、あのお方。 伊達の殿様のお手付きだもの。 そのうち流行りの歌になる end. 今回のテーマは「名前を呼び合わない二人」と「お外でデート」でした。 気付いたら今まで室内にいる政孫ばっかり書いていた。たまには外で思う存分いちゃいちゃすればいいと思うよ。 孫市は逃げると思うけれども。 ちなみに二人が茶屋に来た本来の目的は、密偵と接触することだったようです。 2013.05.25up |