「まご、まご、次の木曜日は暇か?」

 襖が遠慮がちに開かれて、隙間からガラシャが顔を出した。わくわくとどきどき、入り混じったような大きな目が輝いている。
 猫背がちに、そして言い知れぬ焦燥感を背中に背負っていた孫市は、長時間見つめ合っていたパソコンのディスプレイから目を離した。目の下にはくっきりとした隈、トレードマークの無精ひげはいささか伸びすぎていて、ひたすらに顔色が悪い。少女の明るさが眩しすぎて、孫市は思わず目を細めた。

「木曜日?」
「うむ、木曜日じゃ」

 油の刺さっていないロボットのような動きで、 壁にかかっている大きなカレンダーを見上げ、孫市はうなった。
「あー……、雑誌コラムの締切があったな、そういや。後、出版社まで行って映画化の打ち合わせと。なんだこれ無理、長政の野郎、無理」

 担当の名前を投げやりに呟いて、手で目元を覆う。生気のない顔は水分まで失っているようで、孫市は悲しくなった。

「嬢ちゃん、何かあるなら金曜じゃだめか」
「むー、ダメなのじゃ。木曜でないとダメなのじゃ」

 頬をふくらませて、しょんぼりと肩を落とす少女に声をかけあぐねていると、

「わかったのじゃ! やはり政宗に頼むのじゃ!」

お仕事の邪魔をして悪かったのう、ありがとうなのじゃ、そう言い放って、ガラシャはぱたぱたと小走りに駆けて行った。その背中に宿題やったかー、と放り投げると、台所の方から、まさむねー、と弾んだ声がかすかに届く。家主の孫市に代わって台所の主となった同居人が、食事の支度をしているのだろう。包丁を持っている時にまとわりつくな馬鹿め、と諌める声が聞こえた。
 孫市は時計をちらり見て、もうこんな時間かよ、腹が減るわけだ、と一人ごちた。夕飯の声がかかる前に、もう一仕事終えてしまおう、パソコンに向き直る。こり固まった首をそろりと回して、深いため息をひとつ。画面に並ぶ文字列に眩暈を感じ、それきり「木曜日」のことなど忘れてしまった。






かっとうチョコレート






「――あー……、なるほど。木曜日ってこういうことか」
「え?」

 長々しい打ち合わせの後、長政が差し出した可愛らしい包みを、孫市はうんざりと見つめた。

「いいや、別に。ありがとよ。市ちゃんにお礼言っといてくれ」

市からだ、そう添えて長政がにこやかに差し出した包みは、淡いピンクの包装紙にちょこんと緑のリボンが乗っている。旦那からの手渡しでなければ、孫市としては十分喜ばしかったそれは、製菓業界の陰謀、もとい、チョコレートである。
 徹夜続きの仕事の疲れも見せない目の前の青年は、孫市の大学からの同窓だ。友人同士、小説家と担当と関係を変えながらも、なかなか長い付き合いが続いている。先日、晴れて結婚したばかりのいわゆる新婚さんで、妻の市は長政と同じく、孫市と大学時代からの付き合いであった。
 去年までは彼女発、彼氏経由だった二月の風物詩は、今年は妻発、旦那経由に華麗にランクダウンしている。寝不足と相まって、涙腺が緩む心地がした。

「それと、これは編集部の女性陣から。ファンからのチョコレートは例年通り仕分けして、自宅に送るよ」
「そうしてくれ。俺はもう疲れたから帰る」
「ああ、お疲れ様。徹夜明けだろうに、わざわざすまなかった」

 爽やかで誠実で、ちょっと頼りないところも素敵、と女子社員に大人気の美形は苦笑いを浮かべて、くたびれた小説家を労わった。
 紙袋にないまぜに入れられたチョコレートたちを、孫市はぼんやりと眺めながら、ひとつくらい本命が入ってたりしないかね、これ、とありもしない妄想をふくらませ、だとしたらこんな雑な渡し方しねえか、かの有名な黒い稲妻も入ってるもんな、と明らかにコンビニで買ってきたようなチョコを見つけて、余計に空しくなった。それよりも何よりもむさぼるように眠りたい、と身体が訴え始めて、孫市はドアに手をかける。

「そうだ、孫市。市から伝えるよう言いつけられているのだが」
「なんだよ。俺は帰る。今帰る。すぐ帰る」
「『義理チョコですから』と」
「知ってるっての、この新婚ボケ!」

 ことさら派手に音を立ててドアを閉め、孫市は足早に出版社を後にした。


 家に帰ってさっさと寝よう、その一心で電車を乗り継いで、最寄りの駅に帰ってくるはずだったのに。

「――普通に入りづれえ……」

 目の前には一軒の洋菓子店があった。
 地元で美味しいと評判のその店の前、さらに言えば電信柱の影で、孫市はもうかれこれ10分はああでもない、こうでもないと立ったり座ったりを繰り返している。時折通り過ぎる地元の奥様方に、あらどうしたの雑賀さん、だなんて声をかけられ、たまの義理チョコ(これまたコンビニ御用達)を受け取りながらも、入るべきか入らぬべきか、往生際悪く悩んでいる。バレンタインデーにいい年をした男が一人、洋菓子店の前で立ち往生する姿はそれなりに間抜けで、同情と好奇を誘ったが、孫市としてはそれどころではなかった。
 治まりきらぬ新婚への憤怒を抱えて、出版社を出たまではよかった。街行く少々浮かれた男女や、頬を染めた少女を見とめて、2月14日の女神たちはやはりかわいらしいと、男は見なかったことにしたのもよかった。ただ、その後、家で待っているだろう青年の顔を思い浮かべて、あいつチョコレート欲しがりそうだな、だなんて考えたのがいけなかった。
 顔に一気に血が上ったのを、覚えている。寝不足の頭がくらくらした。紅潮した頬を少しでも隠したくて、孫市はマフラーで口元を隠して、駅までわき目もふらずに歩いた。

 やっぱり俺が渡す立場なのだろうか、孫市は真剣に考える。電車の不規則な揺れに体を預けながら、すっかり生活に馴染んでしまった同居人を思い浮かべる。
 夏の終わり、家主である孫市に有無を言わさず、同居することを強いた年下の青年は、達観した目つきとは裏腹に、イベント大好き男である。ハロウィン、クリスマス、正月、節分、メジャーな行事は勿論のこと、やれ仲秋の名月だのサンクスギビングデーだの、お前は一体何人だと問いたくなる和洋折衷でお祭りを楽しんでいる。孫市愛しの我が家によく入り浸っている、子どもたちも巻き込んで、だ。おかげでここ数か月、家の中がにぎやかで仕方ない。政宗もガラシャも信親も、まるで何かを取り戻すかのように遊んでいるのを、孫市はなんとなく悟っていた。子供時代を懐かしむだけの大人としては、気が済むまで付き合ってやりたい、そんな気がしている。
 だから、バレンタインと聞いて、チョコレートを欲しがる青年の顔が思い浮かんだのも、仕方がないことなのだ。と、孫市は思う。バレンタインという甘酸っぱい青春を俺はあいつに楽しませてやりたいのだ。と、心の中で言い訳をする。

 不本意ながら孫市と政宗は、世間一般では「お付き合い」している関係に分類される。始まりこそ唐突だったが、ひるむことなくぶつかってくる政宗に心動かされている自分がいることも、家の中に誰かがいる安心を、じんわりと幸せに感じていることも、孫市は自覚していた。
 同居までのこぎつけられ方を振り返っても、日常での主導権の握られ方を鑑みても、孫市の方が疑いようもなく「受身」である。女性やそれに相当する側が受身である、だなんて孫市は決して思わないが(だって世の中には積極的で魅力的な女性は五万といる)、やっぱり男同士の場合、チョコレートを渡すのは一般的に受身である方なのか。いやいや、そもそも受身ってなんだ、やることもやってねえのに受身ってなんだ、いやいやいやいや問題はそこじゃねえ。男同士でバレンタインっていうのがそもそも馬鹿げている。少女マンガかちくしょう。俺は何を期待しているんだ。
 ぐるぐるぐるぐる電車の中で考えをめぐらせて、環状線を無駄に一周したところで、孫市は駅に降り立った。


 やっぱり買って帰ろう。ガキどももいつも通り遊びに来てるだろうし、菓子があれば喜ぶだろうし、政宗にはどさくさに紛れて渡してしまえばいい。そうだそうしよう。
 頼りない決心をして洋菓子屋の前にたどり着いた孫市は、甲斐性のない決心に裏切られ、未だ屈伸運動を繰り返している。よし、あの散歩中の犬が通り過ぎたら中に入るぞ、そう何度目かの決心をしたところで、

「貴様、さきほどから何をしている」

澄んだ高い声が、呆れた調子で話しかけた。

「ぎ、ァ千代ちゃん。いや、これはだな」

 情けなくどもりながら孫市が弁解しようとすると、

「店の前でこれ以上準備運動されるのも迷惑だ。用があるならさっさと店に入れ」

客に向けるには強すぎる語気で、洋菓子店の看板娘は孫市を店内へ導いた。

 時刻はもう夕方で、店の中は少々閑散としている。チョコレートを買いに来る女子は前日までに大勢来た、とァ千代は息をついた。後はそうそう忙しくなることもあるまい、ショーケースに頬杖をつく。店に入ってからの短い間にちらちらと時計を見ていたから、さっさとバイトを上がってしまいたいのだろう、孫市はそうあたりを付ける。18時、10分過ぎ。もしかしたら己が店の前にいたから帰るに帰れなかったのだろうか、と少々申し訳なくもなった。

「……ガキどもに買って帰ろうと思ってさ。この辺の、適当に見繕ってくれないか」
「せめて自分で選べ、横着ものが」

 店内のテーブルに並べられた焼き菓子を指さして、聞かれもしない理由を孫市が言うと、ァ千代は文句を言いながらも袋に手際よく詰めていく。ガラシャや信親がよく小遣いを握りしめて買いに来ているからか、味の好みは熟知しているようだ。
 バレンタインデーだから、と照れくさそうに、カラフルなリボンでラッピングして、おまけを二つ追加した彼女は誰がどう見ても可愛らしくて、孫市はひそかに頬を緩ませた。

「以上でよろしいか?」

 レジを打つァ千代の、良く通る声を聞いて孫市は、さもついでですと言うようなさりげない表情で、

「これも頼むわ」

と小さなチョコレートをカウンターに置いた。トリュフが2つ入ったそれは、赤の包装紙でシックに飾られている。ァ千代は品物と孫市の顔を見比べて、

「……貴様、自分で自分に義理チョコか?」
「やめて、そういう誤解するのやめて」

今日はとても惨めな日だ、と孫市はがくりと肩を落とした。

「まあ、そう気を落とすな、チョコレートなら立花がやろう」

 予想外の言葉に孫市が勢いよく顔を上げると、背後の箱から包みを一つ取り出して、憐みの目を向けながら差し出しているァ千代の姿があった。

「あー……、何だろうねこの、すげえ嬉しいのに、すげえ空しい感じ。だけど君みたいに可愛い子からチョコレートをもらえるなんて嬉しいよ、ありがとう」

 後半なんとか立て直して、対女性用のとびきりの笑顔を浮かべた孫市を、ァ千代は一刀両断した。

「心配するな、貴様のような男に渡すよう、島津から言われている」
「……はぁ?店長?」
「そうだ、バレンタインに見栄を張って、自分のためにチョコレートを買いにくるような男に渡してやれ、とな」
「できれば知らないでいたかった……! せめて義理チョコって言ってくれりゃあまだ夢が!」
「安心しろ、貴様以外には言っていない」

 本日何度目かの義理爆弾を受け取って、傷心の孫市は店を後にした。


 市とァ千代からの悲しい義理チョコと、子どもたち用にと購入した菓子を鞄に詰め込んで、少し悩んで小さな赤い包みはポケットに放り込んだ。落ち着かない気分のまま坂を上って下りて、また上って、孫市が家路につくと、玄関の前で小さな影がうずくまっている。

「あ、孫市さん」

 黒いランドセルを抱えた信親は、孫市を見つけると、嬉しそうに頭をあげる。築45年、なかなかに年季が入った平屋の前、薄闇の中座り込む幼子というのは、孫市の妙な郷愁を誘った。

「どうした、なんで中入らねえんだ」
「追い出されました」

 子どもの口から出るには少々物騒な言葉に孫市は眉を寄せて、腰を下ろし、冷えて赤くなった頬を手で挟んでやる。半ズボンの膝小僧が寒々しい。

「信親には秘密でやることがあるのじゃ!と言われて」

 一人で遊ぶのは飽きました、そうこぼす信親の側には、お気に入りのボールや一輪車が転がっている。おてんば娘は寒さや寂しさにまでは気が回らなかったらしい。

「そりゃ、災難だったな。寒かっただろ、もういいから入ろうぜ」
「でも……」

 言いよどむ小さな身体を抱き上げて、引き戸を開ける。充満する甘い匂いに、ああ、やっぱりと納得をしながら、ただいまー、と語尾を伸ばして大きな声を飛ばす。
 すると、台所からばたばたと出てきた小さな少女が、孫か!お帰りなのじゃ!ちょうどよかったのじゃ、今できたぞ!信親ももう入って良いぞ!と顔をきらきら輝かせてまくしたてる。

「おう、ただいま。その前に信親に一言謝っとけ。こいつ家の前で震えてたぞ」

 孫市がそう告げると、ガラシャはハッと目を開いて、

「すまなかった信親。思うたより遅くなってしまったのじゃ。寒かったであろう。そうじゃ! ストーブがついておるぞ!」

と素直に謝った。信親が靴を脱ぐのを見計らって、部屋の奥へと引っ張っていく。手、洗ってうがいしろよ、と声をかけて、小さな手と手が結ばれるさまに、孫市はほっとひと心地着いた。
 義理チョコの詰まった紙袋と鞄を床に置き、腰を下ろしてゆっくりと靴を脱いでいると、背後から声がかかる。

「お帰り」

 台所にいたであろう政宗がいつの間にかすぐ後ろまで来ていて、孫市は内心動揺した。

「ただいま。あー、今日は参ったぜ、こんな日に外出なんかするもんじゃねえ」
「引きこもりかお前は」

 そう言った政宗の目は、孫市の傍らの紙袋へと注がれている。一瞬、浮気を見咎められた夫のような気分になって、孫市は頭を振った。

「何じゃ、意外とモテるな」
「……お前、わざと言ってるだろ。このあからさまな義理チョコの山が見えねえとは言わせねえぞ」

 紙袋からは義理以上の意味は持てませんと主張するようなラインナップが顔をのぞかせている。

「知っている」

 ふっと政宗が笑うものだから、孫市はこれ見よがしにため息をついた。洗面所に向かうすれ違いざま、目を合わせず政宗に鞄を押し付ける。

「市ちゃんとァ千代ちゃんからのチョコと、ガキ用に俺が買ったやつが入ってるから。分けて食え。悪いけど俺は少し寝るから。もう眠気限界。夕飯食う時起こして」

 ポケットの中の包みを指でいじりつつ、寝て起きてからでもいいよな、ガキ共帰ってからでもいいよな、と誰とも知れず言い訳をして、孫市はあくびをした。

「孫市」

 政宗が一言呼び止める。
 なんだよ、と孫市が固い動きで振り返ると、政宗は珍しく目を泳がせている。口元はへの字に結ばれていて、目元もかすかに赤い。孫市が思わず目を瞠ると、

「ガラシャに作り方を教えろとせがまれてな、ブラウニーを作った。……それとは別にわしが作っておいた生チョコがある。起きたら食べろ。バレンタインじゃからな、こういうのも良かろう」
ちなみに夕飯は鍋だ。少し遅くなっても構わんだろう。8時過ぎに起こす。話し始めると落ち着いたのか、ふてぶてしく言い残すと、政宗は奥へと向かった。向かおうとした。が、できなかった。今しがたの政宗など比にならない程に、顔を赤くした孫市が目の前に立っていたからだ。己の情けなさに感極まったのか、涙目ですらある。

「くそ、お前、さらりと言いやがって。この」
「……孫市?」

 今の今まで渡すのをためらって、後にしようそうしよう、などと逃げ腰になっていた俺の立場をどうしてくれる、心の中で恨み言を言いながら、孫市はポケットの中で溶けそうな赤い包みを、おずおずと取り出した。明後日の方向を見ながら、政宗に軽く投げつける。

「やる。食え。俺は寝る」

 早口にそう言い切って、踵を返した。今度こそ洗面所に向かおうとして、腕を強く掴まれる。
 倒れそうな勢いのまま政宗に引き寄せられ、孫市は瞠目した。政宗の髪や衣服、身体全体から甘い匂いが漂っているようで、くらりとする。しなやかな腕が、力強く孫市の身体を抱きしめる。なけなしの抗議をしようと顔を上げると、顔を緩めた政宗に柔らかく唇を食まれて、だめだ、これはもう勝てねえ、と政宗の背に腕を回した。

 葛藤も意地もプライドも、何もかもが溶けていって、甘い匂いが孫市を包み込む。

 口内にチョコレートの甘ったるさが広がって、

「うわ…甘…」
「散々試食させられたからな」

それでも二人、そのままずるずると座り込んで、玄関の冷たい床を温めながら、懲りず口づけあっていた。


















おまけ


 玄関先に座り込んで、口づけを続ける大人二人を、子ども二人が部屋から顔を出して、ひっそりこっそり見守っていた。二人の手には、ガラシャ特製(ほぼ政宗手作り)ブラウニーが握られている。もごもごと口に含みながら、

「おお、孫と政宗はラブラブなのじゃ!」
「あの、あまり見ない方が」
「邪魔をしてはならんぞ信親! そうじゃ、手紙を置いて縁側から帰ろう!」
「靴は玄関にあります」
「むむむ……」

 空気の読めるお子様が、政宗に見つかるまであと5秒。取り乱した孫市に、政宗が突き飛ばされるまであと8秒。














end.

















大学生政宗×小説家孫市の設定をずっと温めていたのですが、設定だけが頭の中でふくらんでいって、なかなか本編を書き始める踏ん切りが着かなかったので、短編で見切り発車。
同居しながら日々の生活を楽しむ政孫と、入り浸る子どもたち。なんやかんや見守る周囲の暖かさ。
そういうものを私は書きたい。という野望。









2013.2.15up