幸村は音楽を聴くと空を思い描く。
雲一つない快晴、都会の屋上からの星空、気まぐれな通り雨、海に映える夕焼けの雲など、思い浮かべるものは様々だ。

その中にたった一人、自分が立っているような感覚に浸る。
そしてそれらを五感で感じ取るのだ。


ガラシャの音楽は、彼女の性格をそのまま表したようであった。
華やかで天真爛漫で、人を温かい気持ちにさせる彼女の笑顔そのままの音。
春のぽかぽかした日差しと緩やかに雲が流れる穏やかな空が描かれる。


だが、途中から淀みのなかったガラシャの弓使いに違和感が生まれ始めた。
ガラシャの戸惑い、少しの焦りが音楽を通して伝わってくる。


まずい、と思い始めた時にはもう遅かった。
風が止み辺り一帯が闇に包まれる。

一転して空が何も見えなくなり、譜面が辺り一帯に広がる。
他の感覚が一気に消えて音の正否しか追えなくなる。
白と黒のコントラストが幸村の視界を覆った。


幸村は胸元を強く握りしめると声もなく俯いた。







ひとかけらの空 11






「すまぬ、孫。途中から自信がなくなってしまったのじゃ…練習番号Gからもう一度やってくれぬか?」


ガラシャが弓を弦から離すと孫市のほうを振り返る。


「おう、俺もタイミング掴めなくて悪かったな」


鍵盤から手を離して孫市が声を掛けると、ガラシャは譜面を見て再度指使いを確認し始める。

通し練習の予定ではあったが、気になるところからもう一度やり直すということはままある話だ。
真剣な眼差しのガラシャの横顔を見つめながら、孫市は口を開いた。


「おい、待てよ」


今までとは違う声色の孫市に、驚いたようにガラシャが振り返る。
「いや、お嬢ちゃんに対してじゃねぇよ」と孫市が笑いながら返すと、表情を厳しいものに変えて入り口付近へ視線をやった。


「人様の演奏の途中に出ていこうとするなんて礼儀知らずな奴だな」


咎めるような声に、相手ー幸村は一瞬体を震わせる。
しかし視線を外したまま一言呟くだけだった。


「…すみま、せん」


いつもの凛とした声からかけ離れた、弱々しい声で幸村が返事をする。


「少し気分が悪くなってしまった、もの…ですから」

歯切れの悪い返答をしながら、それでも申し訳ないと思ったのか幸村が振り返る。
床に落としていた視線を上げたその顔色は悪く、真新しいブラウスに皺がよるほど握りしめた手は微かに震えている。

ガラシャが心配そうに見つめる中、幸村は「ごめん」と微笑むとその場を辞しようとする。
幸村が力なく練習室の扉に手を掛けた。


その時。


「逃げるな」


孫市の声が3人の間の微妙な空気を切り裂く。
先ほどまでの力を抜いたような飄々とした声から打って変わって、落ち着いた声音だった。


幸村が瞳を揺らすと孫市を振り返る。
ガラシャは一瞬の後、孫市を音を立てそうな勢いで振り向いて詰め寄った。


「孫!幸村は気分がすぐれぬのじゃ!何ゆえそのような無体をする!」
「それじゃ根本的な解決にならねぇからさ」


孫市の冷静な反応にガラシャが詰まる。

ガラシャはこういう時の孫市はどうやっても譲らないこと、そして自分にはわからないような何か深い考えがあるであろうことを経験から感じ取っていた。


「もう一度言う。逃げるな。俺に用があるなら嬢ちゃんの演奏を最後まで聞いてろ。いいな」


俯きがちだった幸村が視線をしっかりと上げる。
孫市は何も言わずに幸村を見つめた。

二人の視線が交錯する。


ガラシャが固唾をのんで見守る中、先に動いたのは幸村だった。

小さく息を吐き数度視線を彷徨わせた後、先ほどまで座っていた椅子に腰を下ろす。
抱えていた荷物を床に置くと姿勢を正し、孫市を静かに見つめた。

ふ、と孫市が空気を和らげ、何事もなかったかのように立ち上がってガラシャの譜面を覗きこんだ。


「じゃ、Gからもう一度な」
「……孫、」
「大丈夫。俺に任せとけって。ほら、ほかの奴心配してる場合じゃねぇだろ。続き、いくぜ」















続く


















孫はいいお兄さんだと思います。









2010.11.21up