きみのて。政孫ver. 「ありがとうございました」 宗茂が担当客を得意の営業用スマイルで送り出し店内に戻ってくると、ひんやりとした空気が彼と共に店内に入り込んだ。 時刻はもう19時をまわったところ。 息も白くなってきた最近では、ゴミ捨てに少し出るだけでも肌寒い。 ここ美容院『バーバースリーアローズ』(非常に残念なことに店名だ)も、あと1時間で閉店だ。 「さて、今日もあと一人か。俺はそろそろ上がらせてもらうが、いいかな」 宗茂が孫市を振り返り、いいかなと尋ねる割には確信を持った声音で言う。 どうせ店長が既に了承しているのだろう。 ちなみに彼の担当はほとんどが女性客ばかりだ。 もちろん腕は確かだが、どちらかというと本人も大いに自覚している端麗な容姿と一見人当たりの良い笑顔につられているのだろう。 妙に子供にばかり好かれている自分とは随分違う。 いいよなぁ美しいお嬢さんとお近づきになれるなんて、と孫市はひとりごちながら店長に声を掛けた。 「おーい元就、宗茂帰るってよ。いいんだろ?」 すると、奥からひょっこりと店長が顔を覗かせる。 のほほん、という表現が背景に見えるような人の良い笑顔で元就が微笑んだ。 ちなみに彼は普段店頭に立つことは少ないが、ご高齢の方には絶大な支持を得ているのを孫市は知っている。 「ああもうそんな時間かい?お疲れさま宗茂、ァ千代にもよろしく」 「ええ、彼女が鬼にほだされる前に迎えに行きますよ」 そう言いながら宗茂は店を後にした。 元就の言うァ千代とは、宗茂の彼女だ。 散々女の子たちにきゃあきゃあ言われているというのに、宗茂はこのァ千代という彼女に相当惚れこんでいるらしい。 今日も今日とてバイト先まで迎えに行くというのだから甲斐甲斐しいものだ。 それにしても時間休を取ってまで会いに行くとはいいご身分だこと。 「全く、随分とまあ入れ込んでるな」 孫市が苦笑しながら皮肉たっぷりに言ってやると。 「お前の上得意様程じゃないさ」 宗茂から思わぬ反撃が来た。 孫市が一瞬、とある人物を思い浮かべて声を詰まらせる。 その間に宗茂はじゃあな、と笑いながら背を向けた。 「ったく、相変わらず口の減らない奴だな」 それにしても途中で帰るんだから、もっと殊勝にしてもいいんじゃないだろうか。 くそ、ほんと性格悪いなあいつ、と呟きながら宗茂の背中を睨みつける。 だが確かに孫市は、宗茂が言うとおり足繁く通ってくれる人物に心当たりがあった。 これから来る、今日最後の客。 随分前からのご贔屓さんで、若さ故の志の高さと少々の生意気さが微笑ましい大学生。 密かに孫市はこの若者の成長を楽しみにしている。 柄にもないが、例えるならば兄のような気分だろうか。 と、孫市が物思いに耽っていたところに、店の扉が勢いよく開いた。 扉の前に立っていたのは今しがたまで考えていた人物だったので、多少の気まずさを抱きながら孫市は言った。 「…いらっしゃいませ」 「何じゃ、お前ひとりか。煩いのがいなくなって清々するがな」 そんな孫市の様子に気づかず、威勢の良い声と共に店に入ってきた。 言い様青年は孫市にコートを投げる。 いつもと変わらない子供らしい仕草に、孫市は苦笑しながら受け取った。 「お前も飽きずに来るね。他に近い店いくらでもあるだろうに」 「何を今更。それに客に対して無礼な態度な店員じゃな。お得意様を減らしたいのか」 「いえいえ滅相もございません」 普段通りの言葉遊びに興じながら、シャワー台に案内する。 今回も彼のコースはカット&ブロウ、この店の中では一番安い学生用コースだ。 だが政宗は2月と空けずに予約を入れてくる。 その髪の長さにこだわりがあるのかと思ったが、そうでもないらしい。 そして政宗はカットの間は雑誌・本を読むことはない。 孫市と話すこともあるが、それほど頻繁でもない。 ただじっとカットしている孫市の指先を眺めているようだった。 いろいろな客を見てきたためそれほど気にはならないが、政宗の場合はあまりにも真剣だ。 だから以前美容師になりたいのかと聞いたのだが、そんなわけあるか、と愛想なく返された。 それ以降孫市は政宗の好きにさせている。 今日も孫市はいつも通り仕事を終え、政宗はその仕事を鏡越しにじっと見つめていた。 はいおつかれさん、とケープを取ると、政宗はうむ、と頷くとレジへと向かった。 会計を終えると孫市はコートを渡し、次いで鞄を持ち上げようとする。 だが想像していたよりずっと重かったのに驚き、思わず政宗に声を掛けた。 「…重っ。この鞄、何入ってんだよ」 「経営学書籍」 コートを羽織りながら政宗が端的に答える。 ふーん、と頷いた孫市が政宗を送り出そうとドアを開けた時、突然政宗が顔を上げた。 「…3年じゃ。3年待っておれ、孫市」 唐突に言い出した政宗に、孫市が聞き返す。 「ん?何がだよ」 「お前に店を持たせてやる」 政宗の真っ直ぐな目に孫市は一瞬息を詰めたが、いつもの調子を取り戻して返した。 「おいおいそりゃあ困るな。この店、元就と宗茂だけじゃやっていけないぜ?」 「ふん、あんな老人には経営など務まらん、わしが店ごと買い取ってやる。それなら文句ないであろう」 「ひゅう、言うね政宗」 口笛を鳴らしながら笑う孫市に、政宗は変わらず真剣な表情を向ける。 「そうしたらお前を独立させる。わしが欲しいのはお前じゃ、孫市」 …ものすごいことを言われた気がする。 笑ってごまかそうかと思ったが、政宗の顔つきにそんなことも出来なくなった。 またこの瞳だ、と孫市は思う。 彼はこの目をしたときには必ず大きなことをやり遂げる。 部活動で全国大会に行った時も然り、有名難関大に入学したときも然り。 一瞬気圧された自分に悔しくなって、孫市は軽口を返した。 「…俺だってただ待ってはいないぜ」 「ならばその先で追いつくまでよ。精々腕を磨いておれ」 そう言うと、政宗は突然懐から袋を取り出し、孫市に押し付けた。 「…何だよこれ」 「くれてやる」 あっけにとられている孫市を尻目に、じゃあな、と政宗はそれ以上何を言うこともなく店を出て行った。 政宗の後姿を見守りながら、先程手渡したコートの大きさを思い出す。 また一回り大きくなっちまったな、と少し悔しくなった。 「さあて、俺も負けてられないね」 押し付けるように渡された袋の中には、学生には少し高価なハンドクリーム。 どうにもくすぐったくなって孫市は笑った。 ボトルには子供の体温が残っていた。 end. まだ学生だから高いコースは頼めないけど、回数だけは減らさないようにしてる庶民派政宗もいいじゃない♪ 2013.02.16up |